私について

レールの上の人生から、私の人生へ〜離婚ー在宅ワークー海外移住

はじめまして、きあらです!

このたびは、私のブログにお立ち寄りくださりありがとうございます。

私は、

ニューヨーク生まれ、ミラノ育ち
超お嬢様(と言われている)大学卒業後、
国際線CAとして世界中を飛び回り大使秘書に転職
政府専用機で大統領のアテンドを経験」

と、一見華やかな経歴を持っています。

…….が、

そんな私男を見る目」がありません。
笑い話じゃなくて。。。

人生を託した相手に

気味がいいくらいこっぴどく騙され
どっぷり専業主婦を満喫していたら、
突然、ド貧乏シングルマザーへ転落
貯金はみるみる減っていき、
夫の存在が怖くて娘から目が離せない日々。

まさか、自分がこんな人生を歩むことになるとは…

結局、今こうして話せるので結果オーライですが、

そう言えるまで、どれだけシンドかったか…

だけどこれだけは言えます。

もし、あの時、夫を選んでいなかったら

私は、娘にも、在宅ワークにも、海外移住にも辿り着いていません。

男選びで随分人生が大きく変わってしまいましたが、

皮肉なことにこの「間違った選択」
「正解への道」になったのかもしれません。

現に、パソコン1台で海外移住を実現し

娘を育てながら、新たな人生を歩んでいます。

このブログでは、

子供を守らないと!という純粋な思いを軸に

生活費を稼がないといけないプレッシャーの中で

離婚から在宅ワーク、そして海外移住へと進んだ
リアルなストーリーを綴ります。

  • シングルマザーが在宅ワークでやっていけるの?
  • シングルマザーが海外に行くなんてことできるの?
  • 一人で育てる不安をどう乗り越える?

離婚したばかり、
これからするかも・・・の方へ。

私も、最初は怖くて、どうなるか分からなかったですが、
こうしてここまでくることができています。

このブログが、少しでも「怖がらずに前進するきっかけ」になればと思います。

基本情報

名前:きあら

年齢:ジャニーズでいうSMAP世代

家族:娘(小学生)、猫4匹(野良猫を保護したらその子が妊婦→自宅出産)

仕事:在宅クリエイティブ系のオンライン秘書と猫4匹のシモベ

趣味:ヨガと瞑想、料理と掃除

なんでも私のせいの幼少期

「あなたのせいよ!」

幼稚園のころ、家が火事で焼けた

原因は、天ぷらの火の不始末でした、

・・・とはならなかったのが、うちの親。

「火事の原因はあなたがピアノを何度も間違えてたせいよ!」

ピアノの練習をしていた私のミスにイライラした母が説教をしに来た。
その間に火を消し忘れ、火事になった。

つまり、

火事はピアノを間違えていた「私のせい」

この一件が、私の幼少期の立ち位置を全てものがっている。

何が起きても「悪いのは私」
いつもこういう扱いだった

姉の鞄持ちに目覚めた小学生時代

小学校はイタリア・ミラノで過ごす。
得意科目は皆無。

算数に至っては、初日の「3+4」が暗号にしか見えず
早々に戦線離脱

加えて、ミラノは治安がよろしくない
子どもだけで外遊びする環境ではなく、
音楽学校に通う姉は練習漬けで、一緒に遊ぶこともできない。

そんな私の唯一夢中になれたのは——
「姉の鞄持ち」として、
付き人のように姉にくっつきまわることだった。

この頃から、縁の下の力持ち気質が育っていたのかもしれない。

勉強らしい勉強はしていなかったが、
唯一、日本語の本だけは読み続けていた。

帰国後、その読書習慣が功を奏し、受験に成功。
気づけば、親子3代が通う「超お嬢様学校」
エスカレーターで、そのまま大学まで進むことになる。

3+4が暗号にしか見えなかったくせに・・・

算数は暗号、日本語の本だけが味方。
気づけば親が敷いたお嬢様街道に乗っていた。

理不尽が日常だったお嬢様学生時代

受験に合格したとはいえ、親子3代目ともなれば、ほぼコネ入学。
もはやただの「儀式」でしかなかった。

政治家、官僚、医者、財閥、宮家——
名だたる家柄の子女たちが勢揃いする女子校。

連絡網で見る「03」以外の番号があるだけで目立つレベル。

あとはみんな、田園調布・白金・広尾・一番町にお住まいの方々。

成績は中の下、何も光るものがない

ミラノ帰りの帰国子女なんて、
ここでは何の武器にもならず、ただの平凡な生徒。

厳しい校則にと
生徒の家柄で態度を露骨に変える教師たちにもうんざり。

「理不尽」が当たり前の世界で、ずっと違和感を抱いて過ごした。

生まれと育ちによる格差があると知り
理不尽な日常に違和感を抱き続きた日々

再びミラノへ——そして、解放の寮生活

思春期ど真ん中のタイミングで、再びミラノへ
今度は男女共学のインターナショナルスクールに通うことに。

親と学校の都合で、私は、数ヶ月だけ寮に放り込まれた。

これがもう、人生の転機。

それまで溜め込んでいたストレスが一気に爆発し解放感MAX!

親と離れる瞬間、込み上げたのは寂しさではなく……
「全てからやっと自由になれる!」
と嬉しすぎて涙が止まらなかった。

味わったことのない自由。
本当の自分に出会えたような感覚
生きているという実感を噛み締めた日々、
初めて知る、解放感を堪能したのも束の間

再び、1年後元の檻へ戻ることになった

そのまま推薦で大学に入り、

本当は無性に哲学科に惹かれたけれど、

周囲から、男子受け、就職受けが良くないと説得され、

無難に花形英文科へ。

英文科には、伝統的な習慣があった。

文豪の末裔の教授の豪邸でアフタヌーンティーを楽しみながら
英詩を朗読する会。

申し訳ないが、卒業後、アフタヌーンティーどころか、
英文学が役立った瞬間は、今のところ一度もない。

束の間の自由を味わい、再び檻の世界へ。
結局何も考えずに親の敷いた街道へ。

「なんとなく」の人生まっしぐら

興味もない英文科でなんとか卒論を仕上げ、

超氷河期の就職活動を「とりあえず」開始。

周囲は親のコネで、女子アナ、広告代理店、総合商社へと次々と内定を決めていくのを横目に 私は書類は通るが筆記と面接で落ちまくり

特に実力もない私が、唯一内定をもらえたのは、
当時、契約社員を大量採用していた鶴のマークの航空会社。
大学名で滑り込んだだけ

ここしか受からなかったし…」と、
なんとなく訓練を受け、
流れで客室乗務員に

なんとなく世界を飛び回る日々。
激務なので給料もよく20代で
なんとなく都内にマンションも購入。

男は3点(腕時計、ベルト、靴)で判断する世界で、
フライト先では高級ホテルに泊まり
ブランド物を買い漁り
エステ三昧の日々

親が敷いた道のおかげで学歴も内定も手に入れたのに
なんとなく手に入れたものを勘違いし、
お高くとまった女へと
仕上がった。

人生、舐め腐った態度。
「私の人生、完璧じゃん?」 と本気で思っていた。

努力もしていないくせに、感謝のかけらもない
恵まれていることすらわかっていなかった。

努力も感謝もなしに、
すべてを当たり前と思っていた
人生で一番、最悪な自分だった。

「なんとなく」の時代、終わる。

ある日のフライト、これが終われば10月のパリのセールが待っている!
と思いながら臨んだロスへのフライト。
ホテルで眠っていたら、同期からの電話で起こされる。

「今すぐテレビつけて!」

ニューヨーク同時多発テロだった。

乗務員の私たちも当然、数日間帰国できず、ホテルに缶詰。
こんな状況にも関わらず私たちの関心は、

フライトのスケジュールがずれ、
パリのセールに行けなくなること!

今世界で何がおきてるの?

そんな中、みんなで数週間
一部しかない新聞を回し読みする日々

最初は一面ばかり読んでいたが、さすがに飽き
仕方なく、今まで興味のなかった政治面を読んでみた。

そこで何度も目にした単語——
「アルカイーダ」、「タリバン」、「アフガニスタン」

このターバン巻いて散弾銃持った人たち何なの?

どうしても無視できなかった。

日本に帰国後、すぐに調べた。
そこにあったのは、

教育を受けることすら許されず、全身ブルカで覆われ、
虐げられる女性たちの現実

「パリのセールどころじゃない。
世界はとんでもないことになってる。」

目が覚めた。

まずは、教授宅で紅茶片手に読む英詩よりも、世界の現実を知る国際英語を学ばなければと思った。英単語を詰め込んだ。

そして1年後、私は客室乗務員を辞め

アフがニスタンに支援を送っている
緊急国際支援を行うNGOにインターンとして飛び込んだ

完全に目が醒めた

ぬるま湯から飛び出した先は頭キレキレ集団のNGO

NGOの世界に飛び込んだ私は、月3万円の報酬のインターン。
もちろん、鶴丸を辞めたことに親は大激怒していたがそこは華麗にスルー

そのNGOは、語学堪能、修士・博士号保持者がずらりと並ぶ、
正義と信念の塊の頭キレキレ集団。

紛争地で瞬時にニーズを判断し、政府を巻き込みながらきめ細かい支援を展開、

なんとなく人生を消費していた私にとって、
寝る間も惜しんで且つ颯爽と働く彼女たちは
衝撃的に、鳥肌が立つほど、カッコよかった。

なんの取り柄もない私が、
そんな集団の中でできたことといえば——

広報誌作成のお手伝い
機内アナウンスの経験を活かした報告会の司会

それくらいだった。

でも今思えば、
この時にやった広報誌の仕事こそ、今の仕事につながっている。

数年前まで名前も知らなかった国の大使館で働く

1年のインターンとしての修行を経て、
ツテをたどり
日本のアフガニスタン大使館に就職。

大使秘書として、大統領や大臣の来日時には、
日本の外務省とパイプ役を務める大使館の
「大使の鞄持ち」を勤めた。

世界をもっと知りたくてCAを辞めたのに、
気づけば大使のお世話係の秘書になっていた。

でも、その仕事で、
日本がアフガニスタンの復興を支援する現場を目の当たりにすることになった。

このお金が、ブルカをかぶる女性たちの未来につながっていると思うと、
胸が熱くなった。

ここでも、相手は頭キレキレの外務省のエリートたち。
英語よりもまず、彼らと渡り合うために、
ビジネス日本語と敬語を「外国語」のように習得。

さらに、大使が会う相手はどこへ行ってもトップクラスの人々。
その秘書さんたちも当然、一流揃い
この環境で、国際秘書としてのスキルを徹底的に叩き込まれた。

「なんとなく」が通用しない世界。

気づけばこの時に培ったスキルが、
今のクライアントを支える仕事にそのまま生きている。

大使の離任に伴い、派閥が変われば全員解雇される世界
24時間体制で仕事する日々が続きやり切った感もあり、
これを機に、それまで合間を縫って続けていた
不妊治療に専念することを決意

一旦、すべての仕事を辞めた。

またすぐにどこかに復帰する予定だった。
そしてすぐに授かるものだと思っていた。

——しかし、思うようにいかなかった。

ついに、最高峰と言われる病院へ転院。
本格的な不妊治療を開始し、全ての時間とお金をそこに注ぐ。

そして、3年。
私が今生きる理由となっている娘が誕生した

世界を知りたくて飛び出したのに
たどり着いたのは大使の秘書。
でも「本当の世界」に連れていってもらいやがて燃え尽きた。
何の未練もなく不妊治療に専念し待望の娘を授かる。

娘誕生から裏切りまでの5年間

待望の娘が生まれ、毎日は幸せそのものだった。

長年の不妊治療の末に授かった命だからこそ

キャリアを完全にストップさせることに、
何の迷いもなかった。

それほどに、育児は尊く、かけがえのない時間だった。
夫も育児に協力的で、

周囲からは「理想的な家族」と言われるほど。
その言葉を疑うこともなく
ただ幸せな日々を過ごしていた。

——そして、娘が5歳の時私は 知ることになる。

いつから、どれだけの人に騙されていたのか…
未だにわかっていない。

すべてを信じ込み、何も見えていなかった。

何が本当で、何が嘘だったのか。
随分薄汚い世界に自分がいた。
とにかく、ここに娘をいさせてはいけない!

ただひとつ、確かなのは——

娘をこの汚い世界から遠ざけないといけない!

幸せだと信じていた生活は、ただの幻想だった。
私が唯一、信じて守るべきものは娘だけだった

離婚調停と、終わらない恐怖

離婚調停が始まると、

娘を奪われる恐怖の中で生きることになった。

相手は、こちらの動きを異常なまでに警戒し、
先手を打つように娘をダシに脅してきた。

行政からは『施設に避難した方がいい』と言われた。
確かにその方が安全かもしれない。

でも、そこに入れば携帯も没収され、今後の決断すらできない。
それでは、相手の思うツボだ。

冗談じゃない。なぜ、何も悪くない私が追い詰められなければならない?

とにかく、前へ進むことだけに集中した。

実家に戻れば、「孫娘をこんな境遇にしたのはお前の責任だ』と、
私は責められた。

そうだった、ここでは、全部「私のせい」になるんだった。

いつ娘を奪われるか分からない。
相手は、法律も常識も通用しない人種

怖くてフルタイムの仕事に就く勇気が出ない。

高齢の両親を巻き込むわけにもいかない。

少しでも遠くへ、安全な場所へ行かないと。
実家からそう遠くないところへ住まいを決めて、
娘との二人暮らしが始まった。

相手にとって、法律も常識も関係なかった。
ただ、私には娘を守ることしかできなかった。

娘を守るために、働き方を模索した日々

実質ひとりで育てているのに、書類上は離婚できていないため
ひとり親手当はゼロ。

貯金を切り崩しながら生活はどんどん追い詰められていった

常軌を逸した相手との離婚問題を抱え
フルタイム就職は考えられず、まずは近所でパートから。

そして週末はもともと大使館時代に取得したアロマヨガ講師の資格を持っていたため、公民館を借りてヨガを教え始めた。

時代は変わっていて登場していたCanvaを開いて、
手探りでチラシをつくる。
新しいことばかりでデザインスキルはほぼゼロ
完全ど素人
でも、なぜかこの作業が楽しかった。

しかし、生徒は週末しか来ず、パートとヨガの週7の仕事掛け持ちは、
想像以上に過酷だった。

それでも、フルタイムで働くよりは娘のそばにいられるため、なんとか続けられた。

そこへコロナの波。
公民館が閉鎖され、ヨガはオンラインへ移行。
しかし、アロマヨガは香りが重要で、
オンラインでは魅力が伝わらず、生徒が減っていった。

そんな時、ビジネスコースの話が舞い込む。
「ここで何かを作らなければ」と焦り、思い切って課金。

海外のヨガ講師を招き、日本で指導者を育てるプロジェクトを立ち上げ、
半年かけて講座を運営。

結果、数百万円の売上を出したものの、
海外の講師との価値観の違いからやり方の違いから、
利益はほぼ残らず、むしろ借金だけが増えた。

これまで二番手として生きてきた私が
いきなりビジネスなんてそもそも無理だった

しかし、この経験で気づいたことがあった

自分で作ったものが形になり、人が集まる。
そして、その講座が誰かの役に立つ。

「あれ…? もしかして、私こういうの好きかも?」

このとき初めて、スキルゼロ状態だが
「裏方としてコンテンツを作る仕事」 に興味を持ち始めた。

ビジネス構築は苦手だけど
講座作り、動画編集、資料作成——
「裏方」の仕事なら、
私は時間を忘れて没頭できると気づいた。

——この気づきが、今の働き方へとつながっていく。

在宅への転向、そして海外移住を決意

海外のヨガ講座を終えたころ、
依然として毎晩計算機を叩く日々、
アロマヨガの動画講座を作る機会を得た。

ヨガ講師向けにアロマヨガのクラスの作り方やオイルの選び方をまとめた動画講座を制作。仕事依頼ではなく、モニターとして、つくってみた。

その過程で、講座の作り方や動画制作のいじり方を1から学ぶ
次第に、パートを辞め在宅へシフトする意識が強まった
意識だけ。

さらに、知り合いの動画講座制作会社からインスタ投稿制作の仕事を依頼され、少しずつ在宅ワークに軸を移していった

そんな中、マンションの更新時期が迫る。

その頃、周りで、東南アジアへの教育移住を耳にするようになった。

海外移住ーこれだ!
夫から娘の未来を守るには、これしかない!
南風を感じながら
娘と一緒に異国の街を歩く自分がくっきりと想像できた

根拠なんてないけれど、
この母としての直感だけは、どんな理屈よりも強かった

娘を守るために、恐怖に怯えならも、
離婚成立すらできぬままもがき続けた4年が経過していたのだが

相手を刺激しないよう、相手の出方を伺いながら、慎重に立ち回り、
娘の教育を理由に海外移住をしたい旨伝えてみる

すったもんだがあったが、なんとか離婚を成立させ
パスポートも無事に更新できた。

海外移住を決意してから実行するまでわずか半年。
売れるもの全て売り払い、
移住軍資金を必死に貯めた。

正直、在宅ワークだけでやっていける自信はなかった
でも、ダメなら現地で就職すればいい。

とにかく日本を脱出しなければ——
このタイミングを逃してはいけない。


その一心で、在宅ワークに完全にシフトし、
海外移住に踏み切った

在宅ワークだけで
生きていける保証なんてなかった。
それでも、娘を守るために
覚悟を決め、日本を脱出した

過去からの解放


勢いよく海外移住したものの、
案の定、在宅ワークで稼げる自信はずっとなかった。
海外に来てすぐ、現地での就職なんてそう簡単じゃないことも痛感。
このままだと詰む…!

そこで、「独学だけでは限界がある」と思い、リモラボに入会。
独学でやっていたことは、ほぼスキルゼロのままに等しかった。
そこから本気でスキルを磨くことにした

ただの在宅ワークではなく、仕事として価値を生むスキルを身につける。
「時間があるなら勉強!」と決め、
クライアントワーク、コンテンツ制作、動画編集、SNS運用、
できることを増やし、仕事につなげていった。

結果、知り合いからのご紹介が繋がり依頼も増え、
「このまま在宅ワークでやっていける」と確信を持てるようになった。

そんな矢先に、父の訃報を異国で受けた。
家族の中で地位の低い私を、一番気にかけてくれていた父が他界した。
「命には限りがある」という現実を痛感した。

同時に、
この国は多国籍で、多宗教が混在し、一夫多妻制の人たちもいる。
価値観が国ごと、宗教ごとに違うのは当たり前。

そう思うと、国ごとに変わる価値観如きで
正義を振りかざすのも、振り回されるのも、
時間の無駄と感じ

私が経験した結婚生活の終わりは、正解か不正解か、
実は白黒つけられるものではないのかもしれない。

と思った瞬間に

過去に囚われて燻っている暇なんてない!

私は、ブルカを被った女性たちとは違い、
学習する自由があり
働く自由もある。

夫のことをを引きずって「限りある時間」を無駄にしていたなんて——
なんてもったいなかったんだろう。

私は、未来を生きる娘のために
ここで人生を作り直す。

かつて、
親に敷かれた恵まれた環境に感謝できなかった私が、
今、この自由と選択肢があることに心から感謝できている

在宅ワークに切り替え、海外移住したことで、私は過去から解放された。

燻っている時間なんてもったいない。
在宅ワークで娘を守り
これからの人生を一緒に築いていく。

娘と歩む、これからの人生

娘は何も知らず、異国での暮らしを楽しんでいる。
今年で10歳になる。

でも最近、「自分には皆と違って父親がいない」ことを話題に出すことが増えてきた。

私にとって黒歴史でしかない夫も、
娘にとって、一生つきあっていかないといけない
血が繋がっている「父親」

父親の事実を全て知った彼女がその現実と向き合わなくてはならないこと、

彼女がその重みをどう受け止められるのか、

そしてその責任を私がどれだけ持てるのかを常に考えている。

だから、父親のことを話すのは、
もっと大きくなってからにしようと思う。

それまでは、彼女の耳に入らないように細心の注意をはらおう。

そして、
この国に居続けるために、現実問題
ビザを更新しながら収入を確保しなければならない。
外国人の私が、その国に居させてもらうには、収入のノルマがある。
結構えげつない額です。

とにかく、稼がなければならない。

でも、「逃げるために稼ぐ」から、
「ここで娘と生きていくために稼ぐ」へと、
気持ちは変わった。

1馬力での子育ては楽ではないけれど、
二人で幸せに暮らしている。

期待以上に娘は他民族に揉まれながら、
心が強く育ってくれている。

このまま、海外に居続け、
娘が完全に心も全てが安全な場所にいることを見届けてから
私は日本に帰りたいと考えている。

今日も、そのために走り続けている。
とにかく在宅ワークをしながら
娘を見守り続けている。

このブログでは
離婚
から娘を守るために在宅ワークという道を選択し、
必死に生きているシングルマザーのリアルな姿を綴っていきます。

在宅ワークで
ちゃんと稼いで、
暮らしを維持して
前進できているか、
娘を守れているか、
こんな私ですが、時々こちらのサイトに確認しに見に来てくださいね。